2020年公開の邦画『日本独立』は、第二次大戦後のGHQ占領下における日本の“独立”をめぐる攻防を描いた歴史ドラマです。脚本・監督は伊藤俊也。主演は浅野忠信(白洲次郎)と小林薫(吉田茂)で、戦後日本の方向性を決定づけた二人の活躍を中心に据えた作品です。

本作は、戦後憲法制定過程における「日本側の主張と交渉努力」があったとするロジックに基づき、いわゆる「押し付け憲法」論を肯定しつつも、それを美談として描いています。
◆ “日本も主張していた”という美化
作中では、白洲次郎が「従順ならざる唯一の日本人」として描かれ、GHQと渡り合う姿が強調されます。また、吉田茂も、したたかで譲らない外交官として英雄的に扱われています。
しかし、私にはこの描写がどうしても腑に落ちませんでした。
白洲次郎は、戦争中いち早く武相荘にこもり、兵役からも距離を取った人物であり、戦後には東北電力の要職についたものの、疑問の残る振る舞いも多かったとされています。また、留学経験から英語堪能とされていますが、戦中・戦後を通じて、国民の前に立ち大きな責任を担ったわけではない。
吉田茂にしても、英語力は限定的であり、中国駐在経験があるにも関わらず語学面での積極性は乏しかったとも伝わります。むしろ、アメリカにとって都合の良い“御しやすい人物”として重用された側面は否めません。
◆ 映画から導かれた私的問題意識
映画の美談的な構成には、ある種の危うさを感じます。
戦後の日本がいかにアメリカに取り込まれ、制度も意識も支配されていったか――この視点がほとんど語られていません。
映画を観終えた私は、むしろ「なぜこの国は今なお“物言わぬ”のか?」という問いを新たに抱きました。
その問いを掘り下げるため、私は一つの比喩的枠組みを用意しました。
それが「マッカーサー幕府」という視点です。
次回【後編】では、戦後占領統治を江戸幕府になぞらえつつ、なぜアメリカが“間接支配”を選んだのか、その構造と現在までの影響について、私なりの考察を展開したいと思います。
(後編へつづく)