ーーー戦争を寓話として読む力について
「ゴジラ−1.0が許され、雪風が安全だった理由」という記事に、予想以上の反応があった。
多くの読者が感じている違和感が、決して個人的なものではなかったことに、少なからず驚かされた。
そこで最後に考えてみたい。
なぜ海外はこの作品を“読んだ”のに、日本はどこか沈黙しているように見えるのか。
“海外は「物語の裏」を読む”
海外、とりわけ欧米の批評で目立ったのは、『ゴジラ−1.0』を単なる怪獣映画として扱っていない点だ。
・国家が機能しない物語
・同盟国が動けない設定
・無力化された社会
・それでも現場に立つ個人
これらを、
戦後日本の構造的隠喩(メタファー)
として読み解いている。
重要なのは、彼らが「正解」を探しているわけではないことだ。
むしろ、
‘この物語は、何を言えない代わりに、何を語っているのか’
という姿勢で作品に向き合っている。
寓話を読む訓練が、文化として根付いているとも言える。
“日本は「表に書かれたこと」しか語らない”
一方、日本の多くの論評は、
・VFXがすごい
・俳優が良かった
・感動した
・泣けた
といった、体験の共有に終始する。
それ自体は悪くない。
しかし、そこから一歩踏み込んだ
・なぜこの設定なのか
・なぜこの時代なのか
・なぜこの終わり方なのか
といった問いが、ほとんど語られない。
沈黙とは、何も言わないことではない。
問いを立てないことが、沈黙なのだ。
“読めないのではなく、読まない”
ここで重要なのは、日本の観客や批評家が「読めない」わけではないという点だ。
実際、多くの人は心のどこかで気づいている。
・これは今の日本の話ではないか
・あまり深く言語化しない方が安全ではないか
そして、その瞬間に思考を止める。
これは無知ではなく、自己抑制に近い。
“沈黙は検閲ではなく、内面化された態度”
かつての日本には、外からの検閲があった。
しかし今、私たちを縛っているのは、
・誰かに止められる恐怖
・空気を乱すことへの忌避
・面倒な議論を避けたい気分
そうした内面化された慎重さだ。
『ゴジラ−1.0』は、直接的な言葉を使わない。
だからこそ、本来は語れる余地がある。
だが、その余地に踏み込むこと自体を、日本社会は無意識に避けている。
“戦争を「過去」に閉じ込めたい欲望”
日本では、戦争は「終わった話」であってほしい。
慰霊は許されるが、連続性を問うことは好まれない。
・あの戦争と今は無関係
・今の体制は仕方がない
・考えても変わらない
こうして戦争は、
安全な過去として保存される。
寓話は本来、その保存箱を壊す力を持っている。
だからこそ、扱いづらい。
“海外は「自分の問題として」読む”
海外の観客は、『ゴジラ−1.0』を
‘日本の特殊な話’
としてではなく、
‘国家が機能しない時、人はどうするのか’
という普遍的な問いとして読んだ。
だからこそ評価された。
だからこそ、自国の問題にも引き寄せて考えられた。
寓話を読むとは、
他人事を自分事に変換する行為でもある。
“沈黙は、拒否ではない”
日本の沈黙は、この作品を否定しているわけではない。
むしろ逆だ。
・読めてしまうから
・考えてしまうから
・言葉にすると不安になるから
沈黙する。
これは一種の防衛反応であり、
同時に、社会の脆さの表れでもある。
それでも、問いは届いている
PVの数字が示しているのは、
沈黙が「無関心」ではないという事実だ。
声高には語られないが、
静かに考えている人は確実にいる。
『ゴジラ−1.0』が投げた問いは、
表ではなく、水面下で作用している。
”おわりに“
なぜ海外は読み、日本は沈黙するのか。
その答えは単純ではない。
しかし少なくとも言えるのは、
読まれなかったのではない
読まれてしまったからこそ、語られなかった
という可能性だ。
寓話は、誰かに答えを押し付けない。
ただ、考える場所を残して去っていく。
沈黙の中に、その痕跡は確かに残っている。