戦争映画を観て、考えないということ

ーーー戦後日本人の民主主義について

先日、戦争映画を観ても「考えない」国民性について書いた。その後あらためて、『サクラの花』をはじめ、いくつかの邦画の戦争映画を続けて観てみた。やはり、同じ違和感が残った。

 


描かれているのは悲惨な戦場であり、尊い犠牲であり、個々人の善意である。だが、その先――なぜそうなったのか、誰がそれを可能にしたのか、そしてそれは現在とどう繋がっているのか――については、ほとんど語られない。

 


この「考えない構造」は、決して偶然ではない。

実はそれを、最も早く、そして冷静に見抜いていたのが米国だったのではないかと思う。

「従順な家畜の群れ」という冷酷な分析

私が敬愛する文化人類学者、ルース・ベネディクトは、日本人を「従順な家畜の群れ」と表現した。刺激的で、不快に感じる人も多いだろう。しかしこれは侮蔑ではなく、行動様式の冷静な観察だったと私は理解している。

彼女の分析は、日本人が「原理」や「思想」よりも、「与えられた枠組み」と「正当な権威」に従う傾向を強く持つ、という点にあった。

この洞察は、戦後の対日占領政策において、極めて重要な意味を持った。

天皇制という「空っぽの容器」

米国の分析によれば、天皇制そのものは超国家主義の実体ではなく、それを投影するための空っぽの容器だった。人民は、その中身が軍国主義であれ、民主主義であれ、「天皇の下である限り」支持してきた。

であれば、天皇を否定する必要はない。

むしろ天皇を、

天皇制民主主義の象徴

へと変身させればよい。

そうすれば、戦前とまったく同じように、日本人は新しい体制を受け入れる――

これは非常に冷静で、同時に恐ろしいほど合理的な分析だ。

捕虜研究と「模範としての民主主義」

米国は、日本人捕虜の対応を詳細に研究した。

その中で見えてきたのは、日本人が

理屈よりも行動例に影響され
抽象よりも具体的な「型」を模倣する

という特性だった。

この視点は『トレイシー 日本人捕虜秘密尋問所』によって決定的に形作られた。

そこで彼らは、強制ではなく、

「こうなりたい」と思わせる民主主義モデルを提示する。

戦後日本に与えられた民主主義は、

自ら獲得したものというより、

模倣し、学習する対象として配置された制度だったのではないか。

この仕組みは、驚くほど静かに、そして見事に機能した。

戦争映画が語らない理由

こうして考えると、邦画の戦争映画が、

問いを立てない
構造を描かない
感情で閉じる

傾向を持つ理由も見えてくる。

それは検閲の結果ではない。

戦後日本人自身が内面化した態度なのだ。

考えないことは、安全であり、秩序を乱さない。

そして何より、「正しい国民」であり続けることができる。

それでも、模索は続けたい

私は、戦後教育の申し子世代である。

だからこそ、この体制の中で育ち、この価値観を身につけてきた。

しかし同時に、

それがどこから来たものなのかを知ってしまった以上、

無自覚のままではいられない。

真の民主主義とは、

与えられるものでも、模倣するものでもないはずだ。

戦争映画を観て、

ただ悲しむのではなく、

ただ悼むのではなく、

考え続けること。

それが、戦後日本人として、

ようやく辿り着くべき地点なのではないかと思っている。