昨日の記事の最後に利根運河を行く銚子丸の画像を貼りましたが、利根運河全盛期には利根川側の銚子丸と江戸川側の通運丸がそれぞれ別の会社で覇を競ったそうです。通運丸は、車輪状の推進器を船の両翼につけた外輪船という姿からか、たいへんな人気だったらしく、当時の錦絵にも描かれました。 実は昨夏、佃島ウォーキングでこの船を作った造船所の跡地を訪れて居ます。 佃島散策 - Kaccinのひとり言 この石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場でしたが、最初に建造したのが通運丸でした。 運河は明治23(1890)年6月18日、ついに竣工しましたが、完成したばかりの運河にいきなり大型船を航行させることはできず、当面は運河を艀で航行し、利根川は銚子丸、江戸川は通運丸が運送にあたりました。通運丸や銚子丸の利根運河航行が可能になったのは明治28年(1895)のことでした。しかし、明治27年(1894)に総武鉄道の市川―本所間が開通し、明治30年(1897)には成東・八日市場経由で銚子まで鉄道で結ばれました。蒸気船では銚子―東京間に18時間を要したのに対し、汽車ならばわずかに5時間でした。以後も鉄道網の発展はめざましく、蒸気船経営も斜陽の兆しが見えはじめました。そして紆余曲折はあるも鉄道網は拡大して明治37年(1904)には本所―両国間が開通して、ついに両国―銚子間が鉄道で結ばれました。また、常磐線も明治29年(1896)12月に田端―土浦間が開通して大量輸送手段も、水運から鉄道へと流れを変えて行きました。この鉄道輸送網の発達に対し、航路を縮少し、運賃を値下げして対抗しましたが、時代の波には勝てず、通運会社は大正8年(1919)には利根川水系の水運から手を引き、その他の水運は昭和初期に姿を消しました。錦絵にも描かれた文明の利器も約50年で姿を消しました。東葛地域の住民としては河川舟運や鉄道輸送、街道の変遷に興味が尽きる事有りません。