イギリスでは、お茶が日常生活に密接に織り込まれています 1946年、ジョージ・オーウェルはイブニング・スタンダード紙に「お茶はこの国の文明の柱の1つである」と書いて居ます。一説によると一日9回飲むとも言われています。調べてみると:
「アーリーモーニングティー」
朝、目覚めてベッドで飲む紅茶
「ブレックファストティー」
朝食の時に飲む紅茶
「ランチティー」
ランチの時に飲む紅茶
「ハイティー」
夕食の時に飲む紅茶
「アフターディナーティー」
夕食の後に飲む紅茶
「ナイトティー」
就寝前に飲む紅茶などなど。
これでも8回です。これ見て懐かしく思い出したのですがネパールで朝起きるとシェルパがGood morning Sir.といってたっぷりのミルクティーとビスケットをテントの入り口まで持ってきてくれていました。これもイギリス人に躾けられたんでしょうね。確かにこれだけ、お茶を飲むとなると茶葉の消費量は膨大なものになるでしょう。これも調べてみると、19世紀の貿易決済は銀で行われていたのですが、イギリスはお茶を輸入し過ぎていた為、輸入先のシナに支払う銀が底をついてしまったのです。でも、そこは知恵と工夫の国ですから悪魔の三角貿易を考えついたのです。東インド会社は逆に中国から銀を引き出すために、イギリスの羊毛や綿織物をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナのお茶をイギリスへ、という三角です。 で、何が起こったかですが、もともとシナはアヘンはポルトガル商人によって医薬品として輸入していて、その輸入量は年間約1000箱に過ぎないものでした。ところが三角貿易が始まる1830年ころから急激に輸入量が増大し、なんと2万箱。35年には3万箱、39年には4万箱へと激増しました。そして中国国内では逆に銀が流失し財政が窮乏するとともに、アヘンよって風紀の乱れなど社会が混乱してきました。そして、この混乱に追い打ちをかけるように、事件が多発する中、イギリスからアヘン戦争を仕掛けられ強制開国させられました。 これを見ていた江戸幕府も日本も同じようになると恐れる中、米国と修好条約が交渉締結寸前の米国公使ハリスから早くアメリカと条約締結しましょう、調印してくれれば英国にも良しなに働きかけると持ち掛けられ天皇からの勅許待ちにも関わらず調印、なんとその数週間後に英国ともほぼ同じ修好条約をむすびました。英国人が斯くもたくさん紅茶飲まなかったら違った近代史になったでしょう。で、なんでこんなに紅茶を飲むようになったかはまた調べてアップします。